FC2ブログ

Entries

昔の電話  8/8

祖父が亡くなったのは私が小学校の3年生の時だった。体の具合が悪いと寝込みがちになって、診療所の先生に精密検査をするように勧められた。

精密検査ができる県立病院までは距離があった。祖父は入院するため、母に付き添わせてタクシーに乗って行った。祖母は結局最後まで病院へ行かず、代わりに子ども達の面倒をみた。医師から難しい説明をされても自分は理解できないから、少しだけ学のある嫁に任せようと思ったのかもしれない。
母はそのまま祖父が亡くなるまでの間、病院で寝泊まりして祖父の付き添いをした。入院から約一ヶ月後、電報が届いて父が急いで病院へ行った。

祖父が亡くなった後、母がそれまでと打って変わって伸び伸びと振る舞うようになったのが子供心にも感じとれた。嫁に来て以来常に重圧感を感じ畏怖してきた舅が、病気で弱れば力のない嫁でも頼るしかなく、立場が逆転して自分が庇護者になったような気分だったのではないか。付き添った間の経験が母を変化させたような気がする。

祖父が亡くなった翌年に、父に地区総代の役目が回ってきた。地区内に一台も電話がないと不便だということになり、お寺に公衆電話を引いてもらうことになった。年を数えてみると、父はまだ四十歳になったばかりだったはずで、今思えば若かった。

電柱を立て電話線を引く工事が始まり、工事をする人が何人も我が家に泊まり込んで、母がその世話をしていた。貧しい食事なりに、毎回頭を悩ませていたのを覚えている。夕飯ができるまでの間に、子ども好きな人が太い針金を細工しておもちゃを作ってくれた記憶がある。
工事代金は地区の各戸に割り振って捻出しても、足りない分の諸雑費は総代の持ち出しだったようだ。当時、どうやら私の実家はそのくらいの余裕はある家と見られていたらしい。実際はどうだったのか、土地はあっても農家には毎月決まった現金収入がなく、お金を使わない生活が続いていたから、少なくとも私たち子どもはそれほど豊かだと感じたことはなかった。

その頃から、現金収入を求めて兼業農家が増えていた。どこの家も一家の主が外に出たが、私の父は外へ働きに出るのを嫌がった。外聞が悪いと思っていたせいだと思う。父はそういう人だった。
祖父がいなくなって重しがはずれ、自由に買い物ができるようになったのはずなのに、現金がないことに母は苛立っていたのではないか。夫が頼りにならないなら自分で稼ごうとばかりに、3人の子どもの世話は祖母に任せて、住み込みで働きに行ってしまった。

祖母は用が立て込んで、母の手が必要になると、私に電話をかけにいかせた。地区内にやっと引けたお寺の公衆電話から、母の働いていた店に電話をかけたことが何度もあった。ハンドルをぐるぐる回して交換台を呼び出し、繋がるまで待ってから話すという電話台だった。


関連記事
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://ohutarisama331.blog120.fc2.com/tb.php/372-6aecf14f

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

ohutarisama

Author:ohutarisama
中部圏に住む1948年生まれの専業主婦です。
夫と猫2匹と暮らしています。リンクはフリーということでお願いします。

月別アーカイブ

 

検索フォーム

QRコード

QR