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「アミターバ 無量光明」 3/14

編みかけのベストを人台に着せてどんな感じか見ようとして、人台を処分してしまったことを思い出した。自分とはかなり違う体型の人台だったので、もう必要ないと思って捨てたには違いない。去年、断捨離、断捨離と思っていた頃のことだ。どのような捨て方をしたのか思い出せない。多分ボディ部分は可燃物、下部のスタンドは不燃物で出したのだろうと思うのだが。

風呂上がりに化粧水をつけようと洗面所の棚をみたら、ない。昨夜居間に持ってきて使ってそのままかと、探してもない。もしかして二階へ持って上がったかと、二階へ上がって探してもない。まさかと思うけれど、化粧水がテレポートしてしまったのかときょろきょろしていたら、夫が見つけてくれた。鍋を置いてある棚の上にあったそうだ。どうしてそんなところに置いたのか自分でも解らない。いいのだろうか、私。

玄侑宗久作「アミターバ」を読んだ。前に読んだ瀬戸内寂聴さんとの対談本の中でこの小説に言及されていたので、図書館の棚で見つけた時迷わず手に取った。
奥様のお母様の死に際を題材にされたようだ。死ぬとはどういうことか、人は死んで何処へ行くのか、死の瀬戸際にあるお母様の、夢と現の境目のような意識を通して描かれている。死ぬということがこのようなものなら、恐ろしくはないと思えてくる内容だった。

この本の中で作者の分身と思われる僧、慈円さんが「お母さん」と妻に向かって量子物理学の話をする下りなどは、(寂聴さんとの対談の中でも量子物理学のことは話しておられた)面白い。
(人が死んでその体にあった分子は変化しても、原子レベルでは変化せずに地球上にあり続ける。原子の大きさを直径100メートルのピンポン球とすると、その中心に1センチの原子核があり、100メートルの玉の周囲を1ミリという大きさの電子が廻っている。原子核の中の中性子や陽子、電子を含めて量子というが、その量子の世界では、我々の理解できない現象がいろいろ起きているらしい。)
慈円さんは、お母さんが見たという光とお父さんの姿は「お父さんを構成していた量子がぜんぶ地球上、いや、宇宙にはあるわけだから、それがふとしたことでまとまって・・・」お父さんの姿になってお母さんの目の前に現れたという可能性がないとは言えないという。

全くの偶然だが、この本と一緒に借りてきたカーリン・アルヴテーゲンの「満開の栗の木」の中にもアンダシュの父親のプロトン先生が、中学時代のアンダシュのクラスで臨時に授業をすることになり、量子物理学の初歩を講義する場面がある。この場面も非常に面白い。

量子物理学の素人向けの入門書があれば、自分でも読んでみたい気がしてきた。(でも理解できるだろうか、私)


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中部圏に住む1948年生まれの専業主婦です。
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